耳をすませば (1995) - 神話性と多重性


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最終更新日付 : 2004. 3.26

 どこに書こうか迷いましたので、とりあえずはホームの直下にぶらさげることにします。もし続きができたら、階層を深くするということで。

動機

 先だって(2004/3/19でしたか)、スタジオ・ジブリの「耳をすませば」がテレビで放送されました。

 LD を持っているし、何度も見た作品なのでざっと流して途中から寝てしまいましたが、久しぶりの放送にネットも活気づいたようです。

 後日、あちこちさまよっていましたら、以下のような書き込みをみつけました。場所は、C.G.I.: 「耳をすませば」を観て自殺という blog。ここからの孫引きで、長文になりますが引用します。

あのね、ちょっとだけ言わせてもらってもいいですか。
この映画は、何一つ救いがない映画ですよ。
実際には、現実には、絶対にありえないことを、思いっきり細部までこだわった現実的な日常の世界として描くなんて、反則以外の何物でもない。
ファンタジーの世界、少女漫画の世界なら、そこにはフィクションとしての前提があり、それに則った作品としているから、見る側にも、救いがある。
それは、受け手が、初めから「嘘の世界」を前提として見ているからだ。
例えば、漫画「奇面組」や「彼氏彼女の事情」など。初めからネタの世界でしょう。
手塚治虫先生の世界でいえば、「ヒョウタンツギ」の登場により、読者は救いを得られる。
ドラマや映画なら、監督がいて役者が演技している裏舞台の世界が前提としてある。
このアニメ作品には、それらが一切無い。

見ている者は、最初の導入から始まり、この映画は日常の世界として知らず知らずにこの世界に入ってしまう。そこから、恐るべき侵食が始まっている。最後まで完璧な日常の世界として描かれているこの映画は、最後まで見たものを恐ろしくも洗脳させる。

そして、見た者は大いなる錯覚をする。
「これが、本来の現実の世界ではないのか」、と・・・
そこに描かれているものは何だろう。
高校にも行かずに留学してバイオリン作りを目指す彼氏?
親や先生や同級生に何ひとつ反対されずに壁にも遭遇せずに夢を目指す彼女?
その二人による、あたりまえのように描かれているありえない恋愛の世界?

「いいなあこんな学生生活」
「これが本来あるべき学生生活だったんだ」
「すると俺の学生生活ってなんだったんだろう」

そして、見たものの中に、本来では「ありえなかった現実の世界」が正当化され、従来の「あたりまえだった現実の世界」が否定される。
本来持っていなかったものをまるで持っていたように錯覚させ、それを否定される。
こんな残酷な作品は無い。
「現実を錯覚させる」ことがそもそもの悪であり、「現実を否定させる」ことはもっと悪である。
これを作った人は、世の中の人たちにとって、悪である。
映画史上、こんな罪作りな作品は、他に無い。
http://tbn.to/ (2004/3/20の記事より)

 これは、記事中ではアニメ監督押井守氏の発言とされていますが裏を取れませんでした。

 というのは、これがもしかしたらにちゃんねるからのコピペという可能性があるので。
 にちゃんねるの url は、http://tv3.2ch.net/test/read.cgi/cinema/1079104333/77-79ですが、流れてしまう可能性が大きいので、発言日時だけ書いておきます。2004/3/13 です。

神話性

「耳をすませば」

 これは、魔法をかけられた少女の物語です。

 魔法をかける主体ははっきりと示されていません。しかし、魔法をかけられる過程はしっかりと手続きを明示されています。

 それは、トンネルをくぐる儀式です。

 「耳をすませば」にトンネルをくぐるシーンはあったでしょうか。はっきりとはありませんでした。
 電車に乗る猫というありえない日常を発端として、雫は魔法の世界にはいっていきます。猫を追いかけて駅前の大通りを駆け抜け、図書館を通り過ぎ、図書館の裏の、おそらくは日常使われることのない、塀と塀にはさまれたせまくて暗い坂道を登ります。そしてその坂道を抜けたところ、丘の頂上に、雫はそれまで知らなかった町並みを発見します。
 雫にかけられる魔法は、このせまくて暗い坂道を抜ける間にその過程にはいり、坂道から抜け出すことで成功します。
 簡単な魔法は簡単にかけることができ、大がかりな魔法にはそれなりの過程が必要という、これは当たり前の儀式というわけです。

 このシーンから後、作品の最後までの間、雫は魔法にかかったままです。
 魔法がかかったままということは、雫がそのせまくて暗い路地を二度と通り抜けないことで暗示されます。

 そして、魔法をかけられた雫は、雫の望んだ世界、夢に見ていた世界に住むことになるのです。

 もしかしたら、雫は坂道を抜けた丘の頂上の草むらでまどろみ、夢を見ているのかもしれません。「不思議の国のアリス」のように。雫は、エンドロールの流れたあとで目を覚まし、夕暮れの、あるいはまだ日の高い丘の草むらを見渡したかもしれません。
 あるいは、雫は現実世界と魔法世界の両方を同時に生きているのかもしれません。だとしたら、この魔法世界は、微妙に現実世界と混じり合い、どこまでが現実でどこからが魔法なのかがあいまいな世界です。

 魔法がいつとけるのか、それはだれも知りません。

 トンネルは現世と魔法世界をつなぐ通路です。
 「不思議の国のアリス」は、時計を持ったウサギを追って縦穴を落ち、不思議の国に迷いこみます。
 地下の世界はもっと直接的に表現される魔法の世界でもあります。
 こぶ取り爺さんも落としたおむすびを追って地下にもぐり、こぶを取ってもらいました。これもまた魔法です。
 このように、穴や扉や門をくぐることによって魔法の世界と行き来する話しは、世界各国の神話や民話のあちこちに見られます。

 そして、魔法にかけられた夢の世界だからこそ、雫は思いあこがれていた生活を送ることができるのです。

 名前しか知らなかった相手とすてきな恋をしました。しかも、別離と再会というおまけまでついてきました。
 二重の三角関係の中心人物として悲劇のヒロインと縁結びの神を演じました。
 自分の才能を見いだしてくれる庇護者をえて、すばらしい小説を書き上げました。

 その一つ一つが、現実であればとうていありえないようなエピソードであり、主人公だからという理由だけで成立するには説得力がありません。ここはやはり魔法にかかってもらわなくてはいけないでしょう。

 地球堂の主人ははたして実在したのでしょうか。男爵は本当に人形だったのでしょうか。
 同じ日常の世界なのに、雫に魔法をかけた丘の頂上では、魔法世界は雫をさらに深く取り込んでいます。
 丘の上が夕方のときには魔法はより強く働きます。雫の持つ豊富な神話の知識が魔法の世界にいっそうの現実感を持たせ、現実の世界との境界をますますわかりにくくしているのです。

 そうして、この作品では、どこまでが現実世界で、どこからが魔法の世界なのかわからない、二つの世界のゆっくりと混じり合った迷宮がみごとに描き出されています。

「となりのトトロ (1988)」・「千と千尋の神隠し (2001)」

 この同じ手法は、「となりのトトロ」と「千と千尋の神隠し」でも明快に示されています。

 「となりのトトロ」では、庭の雑草でできたトンネルをくぐってサツキとメイのふたりはトトロに出会います。ここでも、トンネルをくぐる間に魔法がかけられ、目的地であるトトロの休む樹の洞にたどり着くことにより魔法がうまくかかっているのは、ふたりがふたたびトンネルをくぐってトトロのところに行こうとしてもそれがかなわないことで明らかです。すでに魔法はかけられ、ふたりがそれ以上トンネルをくぐる必要がないからです。
 かけられた魔法は、「耳をすませば」と同様に最後まで有効になっており、ただ、最後にとけたかもしれないと思われます。ただ、それがはたしてとけけたのか、とけていないのか、はっきりと示されているわけではありません。

 一方、「千と千尋の神隠し」では魔法の始まりと終わりはもっと明確に示されています。千尋・お父さん・お母さんの三人はトンネルをくぐって魔法の世界にはいり、ふたたびトンネルをくぐることによって、現実世界にもどり、同時に魔法もとけます。落ち葉の積もった自動車が時の流れをものがたり、同時に三人が魔法のとけた現実世界にいることを象徴しています。

 「となりのトトロ」「耳をすませば」と「千と千尋の神隠しの」のこの魔法の始まりと終焉の扱いがちがう理由はなんでしょうか。推理してみました。

 その理由 :
トンネルを抜けることにより魔法がかけられるというメッセージが観客に伝わっていないこと、そのために「魔法にかけられた少女の物語」という作品のメッセージが明確でないことに作成側が気づいたから
ではないでしょうか。

 その目的のために、制作者は「千と千尋の神隠し」では本稿の最後に少し書いている、シナリオの重層性をそぎ落として、より明快に単純化し、メッセージが伝わりやすくしました。しかも、なお設定に重層性を塗り込めて作品の品質を保ったのです。

「猫の恩返し (2002)」

 しかし、制作者が変わったためか「猫の恩返し」ではこのメッセージは、またもやぼやけたものになってしまいました。

 「猫の恩返し」においては、このトンネルをくぐるという過程が象徴化されており、最後に魔法がとけるのも同様にわかりにくくなっています。
 まず、魔法はハルが猫王子をあわやの交通事故から救ったあたりから始まっていますが、その過程は大変に長く、ハルに魔法がかけられるのは、ハルが猫の事務所にたどり着くために猫のムタを追って路地を右往左往する時になります。
 また、物語の最後に魔法のとける過程は、ハルが、あたかもトンネルを連想させる、カラスの背中で構成された黒い道をつたって地上に降り立つシーンで示されています。これはトンネルの解釈としてはかなり革新的なものといえます。

 このような展開のために「猫の恩返し」は、魔法世界へのいざないと脱出の手続きにおいて筋立てが典型的ではなくなっています。

魔法が成就させる夢

 「となりのトトロ」、「千と千尋の神隠し」、「耳をすませば」の3作品で、魔法はどのように働いたのでしょうか。どんな夢をかなえてくれたのでしょうか。

 「となりのトトロ」では、それはサツキとメイふたりがお母さんと一緒に暮したいという願いでした。
 それは、猫バスによる療養所までのドライブという魔法のクライマックスを経て、その夢がかないそうという余韻を残しつつエンドロールをむかえるから。魔法が夢の成就のためにあるとすれば、そこでとけていいのではないかと思います。

 「千と千尋の神隠し」ではそれは夢とは少々おもむきを変えています。三人がトンネルを抜けて魔法世界に迷いこんだのが、魔法の何らかのほころびによる事故なのか、それとも魔法世界の意志だったのかはわかりません。ともかくも、そうして訪れた魔法世界でお父さんとお母さんの二人はその世界における罪を犯しました。まあ、無銭飲食は現世でも罪ですが。
 その罪を償うために千尋は働くことになります。罪がつぐなわれた時、魔法はとかれます。

 では、「耳をすませば」はどうだったか。
 この作品に限っては、魔法が成就させるべき夢とはなにかが明示されていないのです。
 逆説的な物言いになりますが、この問いかけがもっと明確に示されていたとしたら、「耳をすませば」はこんなに多様な解釈を許す作品にはなり得なかったでしょう。
 もしもそれがすてきな恋愛をしてすてきな恋人を得ることだったり、心にあたためていたお話しを小説として書き上げることだったとしたら、魔法は作品の最後でとけているでしょう。
 あるいはそれが幸福な人生を送ることだったり、大作家として出世することだったり、それとも今と同じ学生生活をいつまでもいつまでも続けることだったとしたら、魔法はとけていないでしょう。

 雫自身、その夢がなんであるのかをはっきりと自覚していないからかもしれません。
 魔法をかける、正体不明の主体の意志が提示されていないからかもしれません。
 雫の夢があまりにめまぐるしく変っていくから、そのどれが本命の夢なのかわからないのかもしれません。そもそも、本命の夢があるのかないのかもはっきりしません。
 雫の生活全体、いや雫をとりまくひと達全員、もしかしたら雫の生きる世界全体に対する、もっと漠然としたなにかの願いなのかもしれません。

 その回答は見るもの一人一人が自分で考えて得て、納得し、ちがう可能性に思い当たり、発見の喜びと、正解を捜し求める苦悩の両方を味わうことができるものなのです。
 そう、それがこれから書く内容、多重性。

多重性

 雫が魔法をかけられるという過程があいまいに描かれ、魔法の目的が明示されず、作品の最後まで魔法がとけないために、メッセージもまたあいまいになってしまった、その副産物として、この作品はいろいろなレベルの解釈ができる作品となりました。

 少女マンガとして、青春ドラマとして、ホームドラマとして、ビルドゥングス・ロマンとして、バイオリン作者修行の旅の物語として、童話作者の創作技法講座として、あるいは新しい神話として。

 ストーリーだけを追って行っても文句なしに楽しめる作品です。同様にいろいろな方向からの深読みを許す作品です。
 物語はエンドロールが流れても終わっていません。余韻を残し、いろいろなシーンを何度も何度も思い起こさせ、見るもの一人一人の中に続編を産み出して行きます。

 SF 編のディレーニィの項目で書いているように、効果的な結末はあいまいでなければならず、重層的な構成は多様な解釈を許すのです。くり返し、くり返し観賞するごとに新しい発見があり、だから何度も、何度も再放送される、それだけの価値のある名作だと思います。

 それにしても、制作されてからもう10年になろうというのですか。ちっとも古びていないことのほうが驚きが大きいかもしれない。

讃辞

 押井監督の発言であれにちゃんねるのあおりであれ、この発言から本稿の内容についての考えがまとまり、割と気に入ったタイトルもつけられたということで、該当発言の作者な方には深く感謝するものです。いやマジで。


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